三淵嘉子さんって、どんな人?


2024年4月1日に放送開始となったNHKの連続テレビ小説「虎に翼」。主人公のモデルとなった三淵嘉子さんは、少年友の会の設立に深く関わっていました。このコラムでは、三淵さんの生い立ちや人物像をご紹介します。

※以下、東京家事調停協会の広報誌「霞門だより」第142号(2024年3月1日発行)に寄稿された「故三淵 嘉子判事 少年・人みなへの人間愛」(全国少年友の会連絡会及び東京少年友の会 顧問・荒井史男)より、一部修正加筆し、年表を加え引用させていただいています。

昨年(2023)末、『三淵嘉子と家庭裁判所』(清永聡編著 日本評論社刊)が刊行されました。この本により、NHKの連続テレビ小説「ブギウギ」に続く「虎に翼」について、主人公「猪爪寅子」のモデル、故三淵嘉子判事(以下、「三淵さん」)の人物像、家庭裁判所の設立等々ドラマの予備知識が得られます。

三淵さんは大正3年(1914)五黄の寅年生まれで、女性初の弁護士を経て家庭裁判所創設の作業に関わり、裁判官任官後は女性裁判官の先駆けとして男社会の中で奮闘されました。

昭和8年の弁護士法改正によってようやく女性にも弁護士への道が開かれ、三淵さん(当時は武藤姓)は昭和13年、明治大学法学部卒業の年、同学の久米愛さん、中田正子さんも一緒に司法科試験に合格しました。初の女性弁護士誕生でした。

三淵さんの弁護士としての活動は、結婚(和田芳夫さん)、出産、夫の出征等で「開店休業」でした。戦後は、夫の戦病死、弟の戦死、両親の死亡と、苦難の中、裁判官任官を思い立ち、22年3月、司法省に裁判官採用願を提出します。残念ながら、初めて女性裁判官が任命されるには、最高裁発足後の方がふさわしかろう、それまでは司法省民事部で勉強するようにと待ったがかかりました。その後最高裁民事部や家庭局に移り、石田和外、内藤頼博、宇田川潤四郎、市川四郎等、戦後の最高裁発足、家裁設立等の作業を牽引した先輩幹部裁判官のもとで事務官、局付等として関わりました。

昭和24年8月、三淵さんは、裁判官(判事補)として東京地裁民事部に着任しましたが、翌年にはアメリカの家庭裁判所視察のため最高裁から派遣されています。当の三淵さんは、50歳くらいまでは訴訟事件をやりたいと、家裁への異動を敬遠していました。自分が家裁に進むことによって、後輩の女性裁判官の進路も家裁に限られないかと懸念したのです。昭和27年から3年半ほど名古屋地裁へ転勤したほかは東京地裁民事部に戻り(31年8月三淵乾太郎氏と再婚)、ずっと民事事件を担当しました。昭和38年、49歳のとき東京家裁に異動し、以後約10年にわたり少年審判に力を注ぎます。「少年事件は私の生き甲斐でした」とまで語った三淵さんのひたむきさの根底には、少年の可塑性に対する確信と人間愛があったのです。審判での少年への語りかけに、本人、親、同席の調査官等まで感動の涙を流した話は数多く残っています。昭和47年、女性初の所長(新潟家裁)となり、浦和家裁から横浜家裁各所長で定年退官まで完投されました。  

昭和45年に始まった少年法改正要綱を巡る法制審議会での、実務家委員の代表としての三淵さんのご苦労も忘れがたいところです。

もう一つ大きな事績は、昭和41年4月の東京少年友の会設立です。内藤頼博所長、三井明代行、家事部の野田愛子判事らと調停委員、とりわけ女性調停委員の協力を得て、家裁に係属した少年の再非行防止、更生に協力するボランティア団体を立ち上げました。少年友の会の回顧録に残された三淵さんや内藤頼博さんのお話、高野耕一さんの内藤さんからの聞き取りを拝見すると、三淵さんらが少年友の会に期待したのは、裁判所の考える枠にとらわれない自主的に行動する友の会の姿だったようですし、内藤さんは、友の会の活動の在り方として、社会一般との協力基盤が必要だと強調していました。 仕事への厳しさと共に、相手を包み込む優しさと人間的魅力が、ドラマの中でどのように描かれるのか、新しい三淵さんにお会いするのが楽しみです。

三淵嘉子裁判官のご経歴

1914(大3)年11月13日、台湾銀行に務めていた武藤貞雄(東大法学部卒)の5人兄弟の長女としてシンガポールで生まれ、シンガポールの漢字表記(新嘉波)から「嘉子」と名付けられた。

1916(大5)年、父親が台湾銀行ニューヨーク支店に転勤したため、香川県の丸亀にあった武藤ノブ(母親)の実家に転居。

1920年(大9)、父親が台湾銀行東京支店に転勤したため、東京市渋谷区に転居。

1927年(昭2)、東京女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)付属高等女学校入学。

1933(昭8)年4月、明治大学専門部(その後の明治大学短期大学)女子部法科入学。

1935(昭10)年4月、明治大学法学部進学。

1938(昭13)年、明治大学法学部卒業。法学部の卒業式では、男女合わせて成績がトップということで、総代として卒業証書を受け取る。

1938年11月1日、高等文官試験司法科合格、中田正子(1939(昭14)年に中田吉雄(その後の、日本社会党所属の参議院議員)と結婚)及び久米愛とともに初めての女性合格者となる。

1940(昭15)年6月、弁護士試補考試合格。

1940年7月、明治大学専門部女子部法科の助手になる。

1940年12月、東京弁護士会に弁護士登録(初の女性弁護士の一人)。

1941(昭16)年11月5日、武藤家の自宅で書生をしながら明治大学の夜学部に通っていた和田芳夫(父親の中学時代の親友のいとこ)と結婚。「和田嘉子」となる。

1943(昭18)年1月1日、一人だけの子供となった和田芳武が生まれる。

1944年4月、明治大学専門部女子部が明治女子専門学校に改組される。

1944年6月、すぐ下の弟で武藤家の長男だった武藤一郎が、乗っていた輸送船の沈没により戦死。

1944年8月、明治女子専門学校の助教授就任。

1945(昭20)年1月、夫の和田芳夫が招集されて中国の上海へ。すぐに肋膜炎を発病。

1945年5月、東京都港区青山にあった自宅が空襲で焼けたため、福島県坂下町(現在の会津坂下町)に疎開。

1945年8月15日の敗戦を疎開先の福島県坂下町で迎える。その後、川崎市登戸に転居。

1946(昭21)年5月23日、上海から引き揚げてきた和田芳夫が、長崎の陸軍病院で肋膜炎により戦病死。

1947(昭22)年1月、母ノブが脳溢血で死亡。

1947年3月、司法省に出向き、司法大臣官房 石田和外 人事課長(その後の最高裁判所長官)に裁判官採用願を提出。

1947年6月30日、司法省民事部に嘱託として採用され、司法調査室において民法及び家事審判法の立法作業を手伝う。(~1948(昭23)年1月30日)

1947年10月、父貞雄が肝硬変の悪化により死亡。

1947年11月、明治女子専門学校教授に就任。

1948(昭23)年1月31日、裁判所事務官として最高裁判所事務局民事部第三課勤務。(~同年12月31日)

1049(昭24)年1月、最高裁判所事務総局家庭局勤務となる。(~同年6月24日)

1949年6月25日、東京地裁判事補(~1952(昭27)年12月5日)

1950(昭25)年5月、アメリカの家庭裁判所制度視察。

1952(昭27)年12月6日、名古屋地裁判事(~1956(昭31)年4月30日、初の女性判事)

1956(昭31)年5月1日、東京地裁判事(~1962(昭37)年12月5日)

1956年8月、裁判官の三淵乾太郎(初代最高裁長官だった三淵忠彦の子)と結婚、三淵姓となる。

1962(昭37)年12月6日、東京家裁判事兼東京地裁判事

1963(昭38)年4月、東京家裁判事(主に少年審判を担当)

1966(昭41)年、少年友の会(東京少年友の会)設立に尽力。

1967(昭42)年1月1日、東京家裁少年部部総括に就任。(~1972(昭47)年6月14日)

1970(昭45)年7月、法制審議会少年法部会委員(~1977(昭52)年6月)

1972(昭47)年6月15日、新潟家裁所長(~1973(昭48)年10月31日、初の女性裁判所長)

1973(昭48)年11月1日、浦和家裁所長(~1978(昭53)年1月15日)

1978(昭53)年1月16日、横浜家裁所長(~1979(昭54)年11月12日)

1979(昭54)年6月、日本婦人法律家協会会長

1979(昭54)年11月13日、定年により退官。

1979(昭54)年12月、労働省男女平等問題専門家会議座長

1980(昭55)年、東京家裁家事調停委員兼参与員、弁護士に再登録。

1982(昭57)年8月、東京都人事委員会委員

1984(昭59)5月28日、胃がんのため逝去。同日付で、叙勲(勲二等瑞宝章)を受ける。


参考文献等

清永聡編『三淵嘉子と家庭裁判所』(日本評論社、2023(令和5)年)

佐賀千恵美弁護士『華やぐ女たち 女性法曹のあけぼの』(早稲田経営出版1991(平3)年、金壽堂出版2013(平25)年)、同復刻版『三淵嘉子・中田正子・久米愛 日本初の女性法律家たち』(日本評論社、2023(令和5)年)

清永聡『家庭裁判所物語』(日本評論社、2018(平30)年)

三淵嘉子さん追想文集刊行会『追想のひと三淵嘉子』(1985(昭60)年)

明治大学「三淵嘉子(みぶちよしこ)—NHK連続テレビ小説(朝ドラ)の主人公に決まった女子部出身の裁判官—(法曹編)


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